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vol.42学校給食とはどこから来て、どこへ向かうのか ~食と食育を考える100冊の本(24)

藤原辰史著『給食の歴史』岩波新書、2018年

藤原辰史著『給食の歴史』岩波新書、2018年

 日本の学校給食は、「無償化」によって新たな段階に入ろうとしています。
 いよいよ2026年4月から全国の小学校の給食(食材費)に対する国の全額補助が始まります。正確には、国が食材費(保護者負担分)の半額を補助し、残りの半額を都道府県が補助することで保護者負担を無くすという提案がなされていますが、地方負担分は地方交付税で措置する方向で調整すると全国知事会に提案されているため、不交付団体の東京都を除いて実質的に全額が国の負担となる予定です。ただし、国が補助するのは全国の公立小学校の給食費月額平均4688円(2023年度)(月額5200円とすることが与党と一部野党で合意)のみであるため、それ(平均額等)を越える食材費がかかる自治体が差額をどのように扱うのか(保護者に負担させるのか、自治体が独自に補助するのか)が問題となります。
 さて、「19世紀末から20世紀初頭の世紀転換期に世界各地で給食が立て続けに導入されていく」(藤原辰史)流れの中で、日本の学校給食も模索されて敗戦後に本格的に定着したと見ることができます。農業史を専門とする藤原辰史さんは、日本の給食史を「萌芽期」(19世紀後半から敗戦まで)、「占領期」(敗戦後から1952年まで)、「発展期」(占領後から1970年代まで)、「行革期」(1973年のオイルショックから現在まで)に区分しています。その意味では、コロナ後(2020年以降)の現在は「転換期」と呼ぶべき、新たな段階と見ることができるのです。
 もちろん、その大きな要因の一つが新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックを機に配分されたコロナ対策費をもとに、多くの自治体が学校給食の「無償化」を進めたことにあります。こうした流れが一時的な対応にとどまらず、教育費の無償化を求める運動とつながりながら、国費による給食費の「無償化」として定着しつつあることに注目する必要があります。
 行政改革の嵐をくぐり抜けた日本の学校給食でも、いまのところ自校方式からセンター方式へ、小規模調理から大量調理・大規模化へ、直営方式から民間委託方式へという自治体の政策に大きな変化は見られません。しかし、「おいしい給食」「安全で安心できる給食」などの子どもたちや父母の要求があるばかりでなく、所得・生活格差が大きくなりつつある社会の中で「いのちをつなぐ給食」としての意味も、巨大災害時に地域の人たちの「生命を守る給食」としても切実なものとなっています。

高度成長と行政改革は学校給食をどう変えたのか

 現在(2023年)の日本では、公立小学校の児童のほぼすべて(99.2%)、中学校の生徒の90.0%が「完全給食」を食べています。「完全給食」とは、主食(パンまたは米飯)、ミルク、おかず、の3つが揃って提供されているものです。公立小学校で見ると、こうした給食の53.1%(9765か所)が「共同調理場方式」(センター方式)で調理され、その9.6%(225か所)が5000食以上を、1.2%(28か所)が1万食以上を調理しています。調理場の大規模化は、調理の外部委託をともなって人員の合理化(人件費の削減)が進んでいます。

 1961年8月、学校制度調査会が「学校給食制度の改善について」という答申を出した。この中で「給食の完全実施を進めるためにはセンター方式が最も合理的」と指摘する。これを受けて、文部省は、1964年から給食センターへの国庫補助を始め、1966年には通達「学校給食用の物資の共同購入促進について」を出し、学校給食会による食材料一括購入が勧められるようになる。こうして、給食センターは、1963年には全国で32か所だったのだが、1975年には2039か所に急増する。規模はだいたい1日4000食以下だったのだが「マンモス化」が進み、1975年時点では5000食以上が全国で181か所、1万食以上の超大型が76か所も誕生した。(p186-187)

 つまり、現在のセンター方式を中心とした学校給食のあり方は、1960年代後半から70年代のいわゆる高度経済成長期に形作られたものと考えることができます。センター方式に対する反対運動の魁として本書で紹介されているのが、東京都教職員組合学校給食部会長の樹下(じゅげ)尚子の『学校給食ものがたり』(民衆社、1970年)です。そこでは「料理に細かさがなくなって大味であること、調理員と子どもとのふれあいが直接にないこと、給食主任から味付けに対する不満があってもすぐにセンターに伝わらないこと、調理したものの形がくずれてしまうこと、食器の洗浄が雑なこと、缶詰が多いこと、野菜の洗い方や切り方が粗雑なこと、調理員の仕事量が増えていることなど、枚挙にいとまがなかった」として「センター方式は給食にふさわしくない」と結論づけました。
 文部省も『学校給食のしおり』(1967年)で次のような欠点を認めていました。

 ①ミルクや料理がさめやすく、また形がくずれやすい。②調理時間が制約され、給食時間までに配送できないことがある。③事故発生の場合、その被害が広範囲に及ぶ。④献立や調理に、学校の希望が反映しにくい。⑤給食に対する親近感や愛情が薄れやすくなるおそれがある。⑥センター第一主義になりやすい。⑦料理が画一的になりやすい。(p189)

 現在の調理・配送技術の改善で問題の一部は改善されつつありますが、特別区内に多くの自校方式の給食施設が残っているのは「渋滞」等の問題ばかりでなく、こうした反対運動が大きく広がっていたからだと考えることができます。  

先割れスプーンとランチ皿論争

 この頃、センター方式にともなう調理場の大規模化とともに、給食現場に普及した食器が「先割れスプーン」です。

 1959年、新潟県燕市の洋食器卸業者「森井金属興業」の森井司が、東京都大田区の大手厨房器具販売会社「日本調理機商事」(現在の日本調理機)を訪れる。メロンスプーンをもって、これを学校給食用に改良してみてはどうだろうか、と売り込んだのである。
 燕市は、すでに空前の輸出景気であった。メロンスプーンの柄を短くし、丸みもつける工夫を重ねた。試作品に1200本の発注。その1ヶ月後には、数千ダース単位で注文が入った。「柄の部分の掘り柄をなくしたことで洗いやすくなり、衛生にうるさい給食センターには好評だった」(「戦後史開封」取材班編『戦後史開封3』)。つまり、先割れスプーンは、調理場の大型洗浄機で洗いやすいのである。(p197-198)

 こうして自校方式(単独調理場)からセンター方式(共同調理場)への転換にともなう、施設の大型化・効率化に対応した「優れた」食器として先割れスプーンが広く使われるようになったのです。1970〜71年頃の年間600万本をピークに給食用の先割れスプーンの注文が減り始め、1974年のユリ・ゲラーの超能力ブームによる「スプーン曲げブーム」で修理・回収されることが増えるという珍事も起きました。しかし、先割れスプーンの注文が減り始める直接の原因は児童の「犬食い」が社会問題化したからだと言われています。その発端は、東京都三鷹市議会で「給食時での子どものマナーが悪いのは、スプーンのせいだ」と市が追求されたことでした。

 1阿部(市議)は、小学校4年生の子が姿勢悪く食事をしている様子を見て問いただしたところ、「給食を食べるのが大変なんだよ。スプーン一本で食べるんだから」と教えられ、犬食い問題の存在を知ったという。
 阿部は「肉やウドンなど、スプーンで食べにくいものまで先割れスプーン一本で食べている。こぼさないように、つまりマナーをよくしようと思えば思うほど、口が食器の方に突き出る」と給食の様子を振り返る(『学校給食』)。(p198-199)

 三鷹市内19校の給食主任や学校栄養職員、教組代表らで構成する「給食指導検討委員会」による犬食いの調査や、民俗学研究者の本多総一郎の「学校給食から先割れスプーンを追放する会」などの運動が功を奏し、文部省は「学校給食の食器具の多様化」(1976年)を認めたのです。しかし、当時の学校給食の食器具は「熱くて持てないアルマイト製の器」、一体型のランチ皿(パレットのような大きな皿)など、学校給食の食環境は決して良いものとはいえませんでした。このうち「パレットのお化け」と称されたランチ皿は、市議会で「改善」請願が採択されて汁椀やフォークが取り入れられるようになった(1976年5月)後も、使われ続けました。

 毎日新聞社の取材によると、このランチ皿は、1970年頃から使用されているという。有害添加物が溶け出すとして問題になった樹脂である。長さ30センチ、幅22、3センチの長方形。窪みが四つつけられている。
 このランチ皿の製造所は当時全国で20社あったというが、最大手は、三信化工(本社・東京)である。1956年、合成樹脂原料工業薬品および各種合成樹脂製品の製造販売を目的として設立された会社で、現在も集団給食用のトレイや器や小鉢といった給食や学生食堂などでみられる食器を生産している。…集団給食用の衛生的で軽い食器作りに長年従事してきた自負が垣間見える。
 しかし、当時はこの食器が猛烈な批判にさらされていた。(p200-201)

 この頃、食品添加物やポリプロ食器の危険性が広く知られるとともに、アレルギー問題も指摘されるようになりました。当時の学校の画一的な対応を批判して、「学校給食の自由選択制を確立する会」も発足しました(1975年)。

学校給食の歴史をどう考えるのか

 本書の前半にあたる第2章「禍転じて福へ−萌芽期」、第3章「黒船再来−占領期」、第4章「置土産の意味−発展期」は、私たちの多くが知らない学校給食の前史になります。この前史での出来事や議論が、私たちの現在の給食のあり方や考え方に大きな影響を与えているのです。その中で、高度経済成長期以降に導入されたのが「米飯給食」です。

 1957年頃から、国内産の牛乳や乳製品の供給が始まる。1968年から小学校では、脱脂粉乳から生乳に切り替わっていく。1963年1月、文部省は、パンの入手が困難な農村に限って、学校給食にコメの使用を認める。こうして占領期の後遺症から抜け切る端緒が切られた。1967年、国内産米の作況指数が112になり、大豊作時代を迎えたことも大きな意味を持った。自民党農林族議員と農林省からの圧力も大きかった。1967年に文部省学校給食課長だった柳川覚治はこう振り返る。「…食糧庁からのコメ無償交付を条件に、農村以外でも(昭和)45年から実験校を選び、試験的に米飯給食を始めた」(『戦後史開封3』)。また、1974年から学校給食課長だった加戸守行も「コメ離れの問題もあり、既に世論も『米飯給食は当然』という潮流。政府としても米飯給食の全面実施を先延ばしにできなくなり、後は週に何回実施するかの調整だけだった」…と証言している。(p205-206)

 いま特に注目されなければならないのが、保護者負担となっている給食費(食材費)をめぐる問題です。1976年には給食費の値上げに反対する運動も展開され、「義務教育ならば、授業料、教科書に次いで給食費も無償化すべきだ」と訴えたのです。

 しかし、慎重派もいる。「給食が教科書の二の舞になるのでは……」という不安だ。つまり、教科書検定のように「タダにしたのだから、内容に口を出すな」と言われる恐れを加味すると、安易に給食無償化を口に出すことができないのである。占領期にサムスが恐れていたのは無償化によってなんでも国家がやってくれると国家依存体質になり、社会主義政権が成立することだった。確かに、給食費を徴収することは親たちに給食に関わる意識をもたせることにつながる。ただ、現今の子どもの貧困の状況をみると、地域に給食を開くことを視野に入れた無償化の道もまだ選択肢として消えてはいないと思われる。(p208)

 ここに登場するサムスとは、GHQ公衆衛生福祉局長で「医療福祉政策全般を担い、給食導入の責任者として多くの子どもの命を救った」とされる人物です。

 給食は、国家に依存しない自立した人間をつくる、という考え方は、当然、冷戦体制が急速に構築されていくなかで生じたものであるが、それ以上に、給食とは何かを根源的に問うものだ。なぜなら、学校とは社会の力で子どもを守るところであるとともに、一人の自立した人間として育てる所でもあり、厳守すべき社会のルールを学ばせつつ自己の独創性を育てなければならない、という、決して簡単には調和しない課題を引き受けており、日本の給食はまさにその教育の二面性の象徴だからである。それだけではない。治安維持としての給食という、日本側には伏されてきたGHQの考えを合わせて考えると、共産主義革命の防波堤としての給食の性格が二年を経て強まっていることが分かる。どちらの陣営にもアピールになる政策課題であるだけに、冷戦の前線でもあったのだ。(p123)

 学校給食費の負担だけを見れば、確かにサンフランシスコ講和条約が締結される(1951年)まではガリオア資金によって学校給食は無償でした。占領政策資金の打ち切りとともに「貧乏人は麦を食え」と発言した大蔵大臣の池田勇人は「学校給食の国庫負担打ち切りは妥当だ」と主張したのに対して、文部大臣の天野貞祐は次のように反論します。

 池田氏は給食などといって総ての生徒に同じ昼食を食べさせようというのは社会主義だ、教育上の意義などはない〔と主張する〕。このれに対して私は給食によって生徒は他人の弁当をのぞきこんだり、偏食ということも無くなる、礼儀を教えることも出来る、一定のカロリーの食を総ての生徒に食べさせる事が出来る等々によって精神、身體両面から有益で是非とも実行したい〔と述べた〕。(天野貞祐『教育五十年』)(p133)

 これに農林大臣の根本龍太郎が「食糧政策としては非常によい」と発言したことで学校給食が存続することになったと回想しています。しかし、「存続が決まった画期は、むしろ『運動』の展開であった」といわれています。8月29、30日には「学校給食打ち切り反対」の街頭署名運動とデモ更新が行われ、「全国学校給食推進協議会」が発足し、31日には渡米直前の吉田首相に陳情書が届けられました。1951年度の補正予算と対日援助見返り資金からの支出によって学校給食とその国庫負担は継続されることになりました。その後、学校給食法の成立(1954年)に際して衆参両院で付帯決議がなされ、「『学校給食費の負担に困難を感ずる保護者(準要保護者)に対して適当な援助の措置をなすこと』や小麦粉や脱脂粉乳について国庫補助の措置をなすこと、さらに、給食の施設や栄養管理職員等の職員の給与にも国庫補助の道を開くことなどが記された」とされています。
 もともと欠食児童に対する給食支給としての性格を持っていた学校給食が、すべての児童・生徒に対する給食へと拡大・発展し、終戦直後の飢餓状態における子どもの健康維持等を名目とした占領政策による無償給食の再開がなされました。そして、GHQによる占領政策の終了とともに学校給食の存続と費用負担の問題が生じたのです。紙幅の関係で、ララ物資やアメリカの小麦戦略の影響や脱脂粉乳、コッペパンの誕生、さらにさかのぼって戦前期の学校給食の試行錯誤について触れることができませんが、ぜひ本書をお読みいただき現在に連なる学校給食の意味を考えていただければ幸いです。

朝岡 幸彦(あさおか ゆきひこ / 白梅学園大学特任教授/東京農工大学名誉教授)

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